B Corpの視点:「企業の社会的責任は利益を増やすこと」を米経済界の23人と再考する

B Corpの視点:「企業の社会的責任は利益を増やすこと」を米経済界の23人と再考する

アメリカのジャーナリスト、アンドリュー・ロス・ソーキンによるビジネスブログ「DealBook」にて、経済学者フリードマンの有名な「企業の社会的責任は利益を増やすことである」というエッセイ寄稿から、2020年9月で50周年を記念した記事を紹介する。

この約1年前の2019年8月、アメリカの経営者団体ビジネス・ラウンド・テーブル(BRT)が、企業の役割としてすべてのステークホルダーにコミットすると宣言した。それまでこのフリードマンの概念で「株主第一」としてきたBRTの大転換である。そしてその約5か月後、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)でもステークホルダーを意識したテーマが設定され、「ステークホルダー資本主義」はもはや流行語となっている。これは経営者の勝手な暴走を触発するものであるという批判もあるが、SDGを横目に、株主/利益のみならず従業員・環境・コミュニティ・顧客の全てを配慮して経営していくことは、今後も世界の大きな潮流となっていくであろう。

では50年前のフリードマンの思想は、今の経営者や学者たちの目にどう映っているのだろうか。

(以下、記事より)

マーク・ベニオフ(セールスフォース会長兼創業者)

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(セールスフォースのウェブサイトより)

「企業の社会的責任は利益を増やすことである」
(フリードマンのエッセイ題名より)

1980年代、ビジネススクールに在籍していたときにこのフリードマンのエッセイを読んだことをずっと忘れないと思う。これはビジネスの中の唯一のビジネスはビジネス(利益追求)である、と信じるCEOたちに多大なる影響を与えた。むしろ洗脳というべきかもしれないが。フリードマンのエッセイは題名が全てを語っている。
我々の唯一の社会的責任は何か? 儲けることだ。
企業を超えたコミュニティ? 我々の問題ではない。 

私はその時からずっと、近視眼的なフリードマンの意見に反対だった。株主の利益最大化への執着がもたらしたものはひどい経済、人種や健康の不平等、気候変動の大惨事である。どうりで多くの若者が、平等で、インクルーシブで、サステイナブルな未来を資本主義はもたすことができないと思うわけだ。我々の会社は全てのステークホルダーに対して責任がある、「ステークホルダー資本主義」という新しい資本主義のかたちが必要な時なのである。もちろんそれは株主を含んでいるが、従業員、顧客、コミュニティ、そして地球をも巻き込んでいくのだ。

マーティン・リプトン、ワクテル・リプトン・ローゼン・アンド・カッツ(大手法律事務所) シニアパートナー

マーティン-リプトン-ワクテル-リプトン-ローゼン-アンド-カッツ-シニアパートナー-の-B-Corpとは
(WLRKのウェブサイトより)

フリードマンのエッセイの中で最も重要な部分はその題名である。半世紀もの間、このエッセイを要約するのに使われたフレーズであり、アメリカン資本主義の基盤として株主第一主義に沿ったものである。フリードマン・ドクトリンは、短期的な志向が蔓延り、敵対的買収が起こり、ジャンクボンドでファイナンスされ、従業員や環境の保護が侵食され、企業の利益を増加させ株主のために株価を最大化させるような新しい時代を加速させた。こうした資本主義の形は1980年代に勢いを増し、短期思考の危険性が鮮明となり長期的経済と株主第一主義による社会的弊害への対策が急務となった2008年の金融危機まで続いた。

それから、ビジネスリーダーや投資家、政治家、研究機関の著名人の間で、サステイナブルで幅広く長期的なアメリカの繁栄のためにステークホルダー資本主義が次々と取り沙汰され、フリードマン・ドクトリンは侵食されていった。2016年の世界経済フォーラムにおける「ニューパラダイム」の採択や、2020年の「ダボス・マニフェスト2020」でのステークホルダーやESGの原則の包括といった動きがそれを示している通りだ。ステークホルダー・ガバナンスは今、そして今後のアメリカ的資本主義の根底となるであろう。

デイヴィッド・R・ヘンダーソン(フーバー研究所リサーチフェロー)

デイヴィッド-ヘンダーソン-フーバー研究所リサーチフェロー-の-B-Corpとは
フーバー研究所のウェブサイトより

単に利益だけでなく望ましい社会を目指すとか、社会的道義心に基づいて責任をもって雇用を提供し、差別をなくし、環境汚染を防いだりするとか、その他改革家たちの生み出した流行りのキャッチフレーズを並べたりするのは企業を擁護しているに過ぎないとビジネスマンは思っている。
(フリードマンのエッセイより)

私はフリードマンのエッセイが出て数か月後に読み、最初は彼の意見に賛成だった。しかし改めて読んだら、差別排除に責任を感じているようなビジネスマンを批判しているのだとわかった。私はそれはおかしいと思った。フリードマンはゲーリー・ベッカーの差別に関する研究をよく知っていたはずだ。 ベッカーの結論は、例えば黒人に対して差別を行う社員は生産的な従業員を雇うチャンスを捨て、結果潜在的な利益を失うことになるというものだ。 これは経済的には2通りの見方ができる。1つ目は、黒人差別により給与を下げた場合、魅力的な人材を雇いにくくなる。2つ目は、あらかじめ設定した給与に対し、黒人差別により優秀な人材を取り逃がし、能力の劣る白人を採用した場合その人に支払う給与は優秀な黒人を採用した場合より割高になる。つまり雇用主は株主の利益を無視して、支払わなすぎ、または支払いすぎているのだ。

ハワード・シュルツ(スターバックス名誉会長)

ハワード-シュルツ-スターバックス名誉会長
産経ニュースの記事より

企業が責任を持っているということはどういうことであろうか?
(フリードマンのエッセイより)

1986年にスターバックス第一号店を開いた時からずっとこの質問を繰り返してきた。そして私の答えは、「我々の店舗があるコミュニティにとって、我々の存在が経済的で知的で社会的な財産となることを願っている」という元々のミッションステートメントに表れている。これはフリードマンの利益中心の考えに対しての非難でもある。そして我々は、これを利益から差し引くコストとしてやるのではなく、成長の一環としてやるつもりでいる。

スターバックスのイニシアティブは、パートタイムのバリスタへのヘルスケアや学費の補助提供、近隣へのボランティア活動、差別についてオープンに話す、貧困下にある若者の最初の就職を手助けする、なども含まれる。これらをもたらした我々の精神、それは企業が社会発展のために責任があるのだということに基づいているが、この精神によってスターバックスが優秀な人材を雇用し、顧客を惹きつけることにつながった。そして株主に対し1992年から私が社長職から退くまでの2018年にかけて21,826%のリターンをもたらした。

もしフリードマンが、スターバックスのそうした「社会的責任」をしなかったらもっと儲かっていたはずだ、と批判しようものなら、不況下においてヘルスケア経費を削減すべきだと言った機関投資家や、2013年の株主総会でゲイの権利支持は利益を損なっているという誤った見方をしていた投資家に対して言ったことと同じこと、「もし他でもっといいリターンが得られるとお考えなら、どうぞ我々の株を売り払ってください」と私は言うだろう。

2013年、私はスターバックスの株主を前にしてこの質問を投げかけた。
「営利企業の役割と責任とは、いったい何でしょうか?」
フリードマンの遺産は彼の欠陥ある答えではない。問いそのものである。今日のリーダーが、道徳的な目的と高いパフォーマンスとのバランスをとるという新たなコミットメントに従って答えるべき問いなのである。

アレックス・ゴレスキー(ジョンソン&ジョンソンCEO)

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ジョンソン&ジョンソンのウェブサイトより

自由主義の、私有財産のシステムの中では、CEOは企業所有者の従業員である。彼はその雇い主(企業所有者)に対する直接的な責任がある。その責任とは企業所有者の、一般的には、法と倫理的慣習に基づく社会の基本ルールを満たしながら最大限儲けたいという望みに沿って事業を指揮することである。
(フリードマンのエッセイより)

フリードマンの分析は尊敬に値するが、この50年間で株主や社会は変わってきた。従業員は会社がどんな役割を担うかを気にしている。従業員の多くは会社の株主でもあるが、会社に社会的問題解決にむけたリーダーシップを発揮するよう求めている。

1943年、ジョンソン&ジョンソンが新規株式公開の準備をしていた時、ロバート・ウッド・ジョンソンは企業としての責任を明らかにした。それは、第一に患者・医者・看護師・父親・母親など我々の製品やサービスを使う人たち、次に我々の顧客、パートナー企業、我々の従業員、我々のコミュニティに対して、そして最後に株主である。長いことこのバランスに価値を置いてくれる株主たちが存在してくれたことは幸運なことだ。 S&P500の企業平均寿命が20年を下回る今に至るまで、我々のパフォーマンスが示しているように、会社は幅広くステークホルダーに尽くすことと、株主のために長期的財務価値を生み出すことのどちらかを選ぶ必要はない。このエッセイを改めて読むのは非常にいい演習であり、自己精査の重要性を思い出させてくれる。

マリアンヌ・バートランド(シカゴ大学ブーススクールオブビジネス経済学教授)

マリアンヌ-バートランド-シカゴ大学ブーススクールオブビジネス経済学教授-の-B-Corpとは
シカゴ大学(ブース)のウェブサイトより

会社の決定により影響を受ける従業員・顧客・コミュニティの発言権が乏しい株主第一主義はアメリカの資本主義のやり方だった。なぜこれがそんなにも主流になっていったのか?1つは現実的だったからである。様々な、たいてい対立する利害関係者の利益をバランスさせるより、シンプルな1つの目的・役割を与えればいい。しかしもっと問題なのは、当時シカゴ派で主流だった、完璧に機能する市場においては株主にとって良いことは社会にとっても良いことだ、という甘い考えだ。 残念ながらそういう完全な市場は経済学の教科書にしか存在しない。

もっとも、この前提が怪しいことはフリードマンが一番よくわかっていたはずだ。だからおそらく彼は単に「最大限儲けたい」ではなく、「社会の基本ルールを満たしながら最大限儲けたい」と書いているのであろう。法律が不完全市場を正し、利益最大化と社会福祉との両立を手助けすると考えたのであろう。

しかしそのような是正する法律は存在しない。弱い反トラスト法により労働市場には独占力が働き従業員の給与が搾取されたり、汚染は課税されないまま環境破壊が進んでいる。政府は利益最大化を中心とした行動を抑制するような法を制定すべきなのだが、多くの政治家が株主の雇われ人、つまり選挙活動の支援や私腹の肥やしを得る立場になってしまっている。

ダニエル・S・ローブ(サード・ポイントCEO)

ダニエル-ローブ-サード-ポイントCEO-の-B-Corpとは
(サードポイントのウェブサイトより)

時代を超越したフリードマンのエッセイは、アメリカの企業界が法律とは矛盾する「ステークホルダー資本主義」の思想を抱く今日にも響くものがある。ステークホルダー資本主義は、投資家が自らの資本をリスクにさらすに値するインセンティブ、つまり投資に対する利益の約束をゆがませている。だから私は、誤って定義された「ステークホルダー」を優先するあまり一部の経営者が個人的な目的を遂行してしまう、もしくは単純に無能さを(株主還元が少なくなって発覚するまで)カモフラージュすることを許してしまうのではないかというフリードマンの懸念には同感だ。

ESG原則が企業文化や戦略に存在しないということを言いたいわけではない。私の経験では、こうした領域での高い基準はたいてい良好な企業に見られる。我々が投資したり関わったりするトップ企業の社長の多くは、顧客へ素晴らしい商品やサービスを提供するというミッションに突き動かされており、利益はその副産物としてついてくると考えている。幸いにしてアメリカでは、フリードマンが言うような事態を防ぐため、受託者義務を全うしない取締役に対して異議申し立てや更迭ができるオーナーとしての権利を重要視するような、法律とガバナンスにより成文化されたシステムで運営されている。

オレン・キャス(アメリカン・コンパス エグゼクティブダイレクター)

オレン-キャス-アメリカン-コンパス-エグゼクティブダイレクター-の-B-Corpとは
オレン・キャスのウェブサイトより

フリードマンの論理的仮定は丁寧に積み上げられている。しかしベースには、事業オーナーが求めるものは一般的には最大限の金儲けだ、というずさんで根拠のない主張がある。これは経験的に正しくない。個人事業主や非公開会社はたいてい、利益最大化からは遠い、従業員やコミュニティ、顧客のことを考えて経営している。

フリードマンが注目する、この世に散在する名もなき株主とは一体何者なのだろうか。 彼らの嗜好を知るのは非常に難しいのだが、「最大限儲ける」ことが管理職らへの既定の要求であると言っているわけではないだろう。であれば「そのコミュニティにおいて責任あるものとして自らの信じるように経営する」ではないのか?少なくともそれが一般的にオーナーが求めるものだと言えるだろう。

フリードマンの「利益が何よりも一番」という主張を最も擁護する点は、幅広く所有され公的に取引される株式会社の株主は、個人的に従事する事業主とは違うということだ。距離があり、広範にわたっていて、しばしば法的擬制に隠されているため、株主はその会社のコミュニティに対して説明責任を負わないし、知りもしない。株主は会社がどういう経営しているか知らないか、知ろうとしないのだ。

それがフリードマンの議論なのであれば、自由市場の力への称賛ではなく残酷な批判に過ぎない。株主優位という彼のドクトリンへのロジックが成立しない。むしろ、そのようなオーナーシップが阻止されるのであれば、結論としては、利益追求を繁栄の拡散に向けるために、より強力な法的制約が必要になる可能性があるということになる。

オリバー・ハート(ハーバード経済学教授/2016年ノーベル賞受賞)

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毎日新聞記事より

株主や顧客、従業員は自分のお金を望み通り特定の活動に対して使うことができる。経営者は、株主・顧客・従業員の代理人として仕えるのではなく、それと区別された「社会的責任」を果たす。但しこれは経営者と株主・顧客・従業員とは違うお金の使い方をしたときに限る。
(フリードマンのエッセイより)

フリードマンは、企業は金儲けに集中し、他の倫理的問題は個人や政府に任せるべきと主張する。その例はチャリティーだ。 企業がチャリティーに貢献する代わりに、配当を増やして株主に好きなチャリティーへ寄付してもらった方が良いのではないか、とフリードマンは投げかける。

チャリティーの例は説得力はあるが、普遍的ではない。軍隊式のライフル銃を販売する小売店を考えてみよう。あなたが仮に株主で、銃の販売縮小を願っていたとしよう。 どうせ配当が増加すればそのお金で銃の正しい扱い方について宣伝できるのだから、あなたは今の事業戦略を支持してしまうだろうか。おそらくそうではないだろう。それよりも、店がライフル銃を一切取り扱わないよう、あなたの株主としての影響力を生かして方針転換を主張するほうがいいだろう。

チャリティの例と銃の例の違いは、企業は寄付には比較優位を持たないが、小売店には銃を手に入りにくくする比較優位があるということだ。従ってフリードマン・ドクトリンは修正が必要だ。株主は常に金を求めていると考えるのではなく、企業は環境・社会的なゴールのためにいくらかの利益を犠牲にするつもりがあるかどうかを自身に問う必要があるのだ。彼らの望みを意思決定に取り込むことは、株主の富だけでなく幸福を高め、さらに世界をよくするかもしれない。

エリカ・カープ(コーナーストーンキャピタルグループCEO)

エリカ-カープ-コーナーストーンキャピタルグループCEO-の-B-Corpとは
コーナーストーンのウェブサイトより

このプロセスは2段階の政治的疑問を生み出す。原則と結果だ。
(フリードマンのエッセイより)

フリードマンはある2語を入れないという間違いをした。「Long term」だ。 彼が「長期的視点の原理とそれがもたらす結果」について語っていたならば、企業は金融資本、自然資本、人間資本を配備するうえでもっと思いやりある行動ができたかもしれない。これらそれぞれの価値を尊重することは、他の長期的価値を上げることにつながる。フリードマンは「ゲームのルール」についても語っている。そして50年の間でルールは変わってしまった。企業の成功の見通しを評価する際ESG要素を分析する、という新たに出てきた規律は企業の収益性を測るのに欠かせないものとなっている。長期的に見れば、ESG分析というのは投資のスタイルとか投資戦略、資産の種類ではない。それは高度な予測ツールだ。フリードマンは「政府は学ばない。人々だけが学ぶ。」といった。その通り、投資家も企業も、全体的な視点且つより良い方法で、長期にわたって株主に尽くすやり方を学んだ。それが21世紀の自由主義市場経済なのである。

ジョセフ・スティグリッツ(コロンビア大学経済学教授/2001年ノーベル賞受賞)

ジョセフ-スティグリッツ-コロンビア大学経済学教授-の-B-Corpとは
教授のウェブサイトより

これが、「社会的責任」というドクトリンは、市場メカニズムではなく政治メカニズムが希少資源を他の用途に分配する決定を成すに相応しいとする社会主義の見方を受け入れているという理由だ。
(フリードマンのエッセイより)

フリードマンのエッセイとこのトピックについての彼の執筆は、残念ながら非常に影響力のあるものであった。ビジネス業界のマインドセットを変えたのみならず法律やコーポレートガバナンスの規範までをも変えた。司法は、企業が利益と株価の最大化の義務を負うと定め、他の目的を排除した。端的に言えば、フリードマンは様々な執筆を通して、企業の唯一の目的は株主の幸福を最大化させることであるという「株主資本主義」の概念を掲げていた。もちろん彼がこの概念を発明したのではない。当時のツァイトガイストを反映しているものでなければ彼の議論は無視されていたであろう。

フリードマンがこのエッセイを書く頃には、経済学における分析と実証とは別物だという結論にたどり着き、保守的イデオロギーの信奉者となっていた。私は当時、不完全なリスク市場と不完全情報について、初期段階であるがシカゴ大学で講演をしていた。それは、利益最大化は社会福祉最大化につながらないということを示している。私はアダム・スミスの見えざる手、それは自己利益を追求していけば、まるで見えない手があるいかのごとく社会の幸福も実現できうる、という理論の何が間違っていたのかを説明した。そのセミナーの間、そしてその後のたくさんの議論の間、フリードマンはその結論を受け入れられずにいた。かといって彼は反証することはできなかったし、私の分析の方が時代を超えて生き残っている。そして彼の結論は昔ほどの影響力を今は持たない。

彼の分析の不条理さは例で示すことができる。不完全な民主主義において、ある石炭採掘会社が汚染規制法を阻止するために選挙献金を使ったとしよう。 そしてあなたは、ちょっとお金を出せば汚染を減らすことができる会社の管理職である。会社のことだけでなく、子ども、家族、コミュニティを大事に思っているあなたは、フリードマンが言う利益最大化のために汚染抑止の責任放棄をできるだろうか。防止法案を通すように議会に働きかけができなかったとしても業界の他の会社を説得して汚染防止を進めることは無責任なことだろうか。私はそう思わない。あなたや他の人がそういう風に行動できたら、社会福祉は良くなるはずだ。

フリードマンの立場は、経済と民主主義政治プロセスにおける誤解の上にある。そう、理想的には議会は企業活動による私的リターンと社会的リターンとを完全に一致させるような法律を可決するだろう。しかし金が全てである民主主義国家、まさにアメリカにおいては、ゲームのルールは広く一般市民の利益ではなく企業の私的な利益を元に活動できるようになっている。そしてそれは往々にしてうまくいってしまうのだ。

今日、フリードマンの見解の悪い側面が一層影を落としている。マーク・ザッカーバーグの社会的責任を理由に、理不尽なフェイクニュースが彼のソーシャルメディアプラットフォームにはびこることを許していいのか?責任という名において、厄介な外国企業を排除して、独禁法の制約や説明責任から逃れるためにロビー活動を行い、結局は彼の懐を肥やすことになっていいのか?フリードマンはいいと言うだろう。だが経済理論・コモンセンス・過去の経験による答えは違う。ビジネス業界が目覚めたことはいいことだ。さて、彼らが主張する通りに実践するかどうかは見物だ。 

レオ・ストライン(元デラウェア州最高裁判所長官)
&ジョーイ・ズウィリンガー(Allbirds創業者兼社長)

レオ-ストライン-元デラウェア州最高裁判所長官-ジョーイ-ズウィリンガー-Allbirds創業者兼社長-の-B-Corpとは
コロンビア大学のウェブサイト及びAllbirdsのウェブサイトより

労働組合によって賃金抑制を正当化するためにこの「社会的責任」ドクトリンが利用され、その一面が浮き彫りとなった。組合役員が組合員の利益より一般的な社会的目的を優先するよう求められたとき、その利益相反は明白なものとなる。
(フリードマンのエッセイより)

ニューディール政策が花開き、貧困が削減され、黒人の経済的インクルージョンへの真の第一歩を踏み出した頃に、フリードマンはこれを書いた。それ以来、アメリカは経済的平等と保安において後退している。これはコロナにおいてさらに露呈した。

過去50年間、我々の資本主義システムのリターンは富裕層へと歪んだ流れを生み出した。1948年から1979年の間、労働者の生産性は108.1%上昇し、賃金は93.2%上昇したが、株価は603%も上昇した。一方、1979年から2018年の間には、労働者の生産性が69.6%上昇した一方で、それによってもたらされた富は主に経営層と株主に行ってしまい、CEOの報酬は940%も上昇し、株式市場は2,200%も成長したにもかかわらず、賃金はその間たったの11.6%しか上昇していない。フリードマンのパラダイムを逆行させるには、 ステークホルダーや社会に対する積極的な義務を採用しなければならない。しかしそれではまだ道半ば。ビジネスリーダーは政府によるゲームの公正なルールの修復を支援し、複雑な社会を治める強靭な公共団体を尊敬し、公正に税金を支払い、我々国家の政治プロセスを歪ませるような企業資金の使い方をやめなければならない。

サラ・ネルソン(AFA-CWA 客室乗務員協会国際会長)

サラ-ネルソン-AFA-CWA客室乗務員協会国際会長-の-B-Corpとは
AFA-CWAのウェブサイトより

少なくともアメリカでは、労働組合のリーダーが、ビジネスのリーダーよりもはるかに一貫性と勇気を持って、政府の市場へ干渉に反対している、という皮肉な現象があるのだ。
(フリードマンのエッセイより)

現在、少なくとも46%の労働組合無所属のアメリカ人労働者は組合に入る意思があると答えている一方、労働組合の加盟承認率は64%である。しかし労働者の10%しか労働組合に所属していない。この36%のギャップは、5600万人に上るのだが、過去50年間での企業支出の影響を示している。

ダンビサ・モヨ(国際エコノミスト/「カオスの縁」著者)

ダンビサ-モヨ-国際エコノミスト-の-B-Corpとは
ダンビサ・モヨのウェブサイトより

企業は良いことができる。但しそれは企業が自腹を切ることによってだ。(フリードマンのエッセイより)

フリードマンが言っていることの根幹は今も大方正しい。しかし上記の部分については根本的に納得できない。今日ほとんどの企業にとって、「良いことをする」とはどういうことかというのは企業の存在そのものを問う。企業は永続することを前提に活動している。つまり企業は生き残りたいのだ。企業は、技術的な変化、顧客志向の変化、規制の変化に直面し、その変化に対抗するのではなく順応することが求められている。癌の解決策を模索する製薬会社の例を挙げてみよう。そのゴールはソーシャルグッドなものである。 会社からすれば、社会と考えは一致している。つまり利益追求が社会便益に対抗する必要はないのだ。いくつかのケースでは、企業の利益はソーシャルグッドに深く関係するのである。

ロバート・ライシュ(バークレー大学公共政策学教授/元アメリカ合衆国労働長官)

ロバート-ライシュ-バークレー大学公共政策学教授-の-B-Corpとは
ロバート・ライシュのウェブサイトより

これまでの議論を読んだ多くの人は、汚染規制や慢性的失業者への教育などの「社会的」目的のために課税したり支出の決定をする責任を政府が負っていると言われるのは仕方ないとしても、時間のかかる政治プロセス待てないほどに社会問題は喫緊であり、ビジネスマンが社会的責任を実行する方が差し迫った問題を解決するには早いし確実だということを実証したくなっていることだろう。
(フリードマンのエッセイより)

これが書かれた時、フリードマンの議論は攻撃不可能と思えた。しかしこの中に彼が予期しなかった欠陥がある。この半世紀もの間で、大企業は政府を超える勢いで影響力を持つようになり、民主主義を圧倒するようになった。

プリンストン大学のMartin Gilens教授とノースウェスタン大学のBenjamin Page教授による2014年の研究によると、典型的なアメリカ人の嗜好は政府の政策決定に何ら、もしくは少ししか影響を与えないそうだ。この研究は1,779件の政策案件を詳細に調べ、経済界エリート、ビジネス第一で規模に関心のあるグループ、一般的な市民に分けて、影響度を見ている。彼らの結論は、平均的なアメリカ人の嗜好の、政策における統計的有意な影響はごく小さいか、ゼロに近い。議員たちは、ロビー活動の腕前がある大企業の要求は聞く。ちなみにこの研究のデータは1981~2002年なので、最高裁が大金の水門を開いたシチズンズ・ユナイテッド判決(2010年の判決等で、政府が企業の政治的な言論に制限をすることは言論の自由に反するとして、献金に制限を認めない決定が下された。結果大金が政治活動に流れ込むこととなる。こちら参照)の前である。

政治への企業資金投入が急増することで、法人税は軽減され、貧困層のセーフティネットがほどかれ、教育やインフラへの公共投資が貧弱になった。政府による企業の救済措置や助成政策により、「自由市場」までもが凌駕されてしまった。 株主と経営層は、誰も成しえなかったことを非常にうまくやってのけてしまったのだ。

もし今日のCEOたちが社会的責任について真剣に考えているならば、彼らこの恐るべし政治的影響力を使って別のこと、つまりもっと制限の利く公的政治資金に切り替え、企業のロビー活動や選挙キャンペーンへの寄付を制限するような憲法改正によって、大企業がこれ以上政治的に力を持てないようになることを求めるだろう。おそらくフリードマンもこれなら、彼の議論に理論的に沿っているのだから認めてくれるだろう。まぁあまり期待できないが。

グレン・ハバード(コロンビア大学ビジネススクール経済学教授)

グレン-ハバード-コロンビア大学ビジネススクール経済学教授-の-B-Corpとは
グレン・ハバードのウェブサイトより

小さなコミュニティの主要な雇用主である企業が、そのコミュニティの暮らしを良くするために資源を投じることは、その企業にとって長期的な利益になる可能性がある。
(フリードマンのエッセイより)

フリードマンの主張は50年前は議論を巻き起こしていたが、今日もまた物議をかもしている。しかし彼の意見は多かれ少なかれ正しい。少し不公平なことに、フリードマンは「短期的価値」に注目していると捉えられている。つまり、他のステークホルダーの犠牲によって、現在の株主の利益となる、という考えだ。しかしフリードマンの主張は、長期的な株主の価値最大化を含むと捉えた方が良いだろう。その路線で考えると、その企業に対して働くのやめたり、取引をやめたり、買うのをやめたりといった選択ができるステークホルダーたちを犠牲にして短期的利益が成り立つというのは理にかなっていない。別の争点もある。これはフリードマンも想定していたことだが、たとえ長期的な株主利益最大化を目指しても企業が直面する問題に対処できないのだ。そしてたとえば気候変動など、いくつかの問題はフリードマンが予測した以上に間違いなく複雑だ。その場合、政策変更が必要となる。

ケン・ランゴーン(ホームデポ創立者/「資本主義は最高!」著者)

ケン-ランゴーン-ホームデポ創立者-の-B-Corpとは
ホーム・デポのウェブサイトより

「資本主義」「利益」「魂のない企業」などへの嫌悪感が広まっている今日の風潮では、これは自社の利益として完全に正当化される支出の副産物として、善意を生み出すための1つの方法である。
(フリードマンのエッセイより)

フリードマンの深い洞察の中で最も誤解されるのが、企業は「自社の利益において正当化された」善意ある支出はしてもよい、ということだ。これは自発的な授受は双方にとって利益をもたらす、という資本主義社会における根本的真実の延長だと私は見ている。

1978年に私が共同創立したホーム・デポでは、入社したての正社員に対し所定の最低賃金よりはるかに高い給与を支払い、最高の福利厚生と昇進制度を提供している。これは従業員にとって良いことで、会社にとっても良いことだ。私たちのサプライヤーは気分が高まるような取引で終えるような状態にしなければならない。全ての顧客が、妥当な価格で必要なものを手に入れたと自信もって店を出るような状態にしなければならない。

だから、社内で合意形成できれば、私たちの専門性を生かして手を貸すことに「イエス」と言うのだ。私たちは帰還した兵役経験者たちも積極的に採用しているが、何千人もの元軍人の従業員たちはどう絆を築くかを知っているし、それが私たちの文化を強くしている。9.11の直後、私たちは発電機、ワイヤー、電灯、他たくさんの必需品を持ち込んで、グランド・ゼロから人々を助け出した。 ハリケーンや洪水が起きた時も私たちは同じことをしている。私たちの従業員は、国が必要としている時にはホームデポでのノウハウを生かすんだと、心から誇りを持っている。

これらの幅広く多岐にわたる活動の共通点は何だろうか。それはステークホルダーそれぞれが会社の利益率を増やしていることだ。従業員は寛大に扱ってもらい、彼らの仕事に意味がある時、もっと生産的になる。顧客やサプライヤーはその信頼を元により強固な関係を築く。災害支援は、コミュニティ全体にホーム・デポが迅速に問題を解決する方法を知っているのだと示す。

しかしフリードマンがはっきりとした知覚した、利益が原点、ということを無視すれば、善意も含めた使命全体が崩れる。利益という概念を無神経に非難したら、フリードマンに対する怠惰な批判と同じように、相互連携による成果を発揮させるのに欠かせない推進力をつぶしてしまうことになる。

50年以上もの考察を経て、コアとなる目的を見失い、自社のために純粋に利他主義を目標に設定するような会社の残骸が脇に散らばっているのをいくつも見てきた。莫大な時価総額でダウ30に上場したコダックも、一度はキラキラしたサクセスストーリーだった。長々とした寄付リストに沿ってバケツいっぱいの寄付金を注ぎ、そしてそのほとんどは“シュガー・ダディ”(若い女性にお金で近づく中年男性)の会社として名を馳せていたニューヨーク北部向けであった。

そのうち、会社は焦点を失い、多くの要因が重なり崩壊をもたらした。 競合他社がイノベーションに取り組み始めた頃、コダックは追随するだけの器用さと戦略的イニシアチブを欠いていた。 2004年にダウから上場廃止され、2012年に破産した。慈善寄付は枯渇した。 何千人もの労働者が職を失った。 投資家のお金は蒸発した。 そして、ニューヨーク州北部は現在、我が国で最も経済的に困窮している地域の1つとなっている。

すべての投資家、従業員、パートナー、そして顧客も、それぞれ独自の方法で善意を行う自由と補償を与えられている。しかし、企業がそれらを実現するための利益を提供しない限り、彼らはその翼を広げることはできないのだ。

彼ら、普通の人々は、新聞の宣教師か拡声器を持った特定利益団体に、会社の正当に稼いだお金の使い道を指示する架空の権利を与えなければならないほどに、慈善の心と常識を失ってしまっているのだろうか?

フリードマンが警告したように、この問いにYesと主張することは、すべてのアメリカ人を軽蔑するよりも悪だ。それは私たちの人生全てを政治に変えてしまう。 それは、政府をも襲撃するような権力に貪欲な有権者たちが、あなたの貯蓄と投資がどのように使われるかについて張り合ったり、いじくり回すようになることを意味するのだ。 さらに悪いことに、彼らは投票を集めたり、民主主義を守るためにチェック&バランスに注意を払う必要さえない。 彼らは、厚かましくも異議を唱えたり躊躇したりする、一般的にいう欲深い企業を脅迫し、言いくるめ、非難すべきだけなのだ。

それがフリードマン反対派の本質的な議論である。私たちが好むように行動するか、そうでないかである。しかし、アメリカ人はその強力な皮肉に長いこと立ち向かってきた。 フリードマンとそのアイデアの永続的な強さを理解するためのベストな方法は、アメリカ人の心の中に常にある思いと、私たちの国をこんなにも輝かせた何かを、彼は雄弁に表現しているんだと認識することである。

アナンド・ギリダラダス(「Winners Take All」著者)

アナンド-ギリダラダス-Winners-Take-All-の-B-Corpとは
アナンド・ギリダラダスのウェブサイトより

自由社会の基盤を損うから、この偽善的なまやかしを控えるようにと経営層に求めることは、私自身に矛盾するであろう。
(フリードマンのエッセイより)

アメリカでは今日、会社が記録的な収益を発表した直後に誰かが解雇される。誰かの時間が予告なしに短縮される。誰かの水はフラッキング(シェールガスの採掘)よって汚染される。そして、彼らが感謝する悪党の神殿の中に、ミルトン・フリードマンがいる。

このエッセイの中でフリードマンは、事業家たちが自分の車線から逸脱して儲けていながらソーシャルグッドを気にする、いわゆる「ウィンドウ・ドレッシング(まやかし)」について批判している。事業家たちは、社会福祉に配慮するという「政府機能」を引き受けるべきではない。そしてその点においては私は賛成だ。

しかし、問題はここだ。 フリードマンは、すべての機能を政府に任せたいからといって、慈善的で、従業員に親切で、公共投資して、公共の領域に入りこむ経営者のことをかなり強く非難している。悲劇的なことに、フリードマンは、別の、もっと顕著な経営者の公共領域の入り込み方への非難をしていない。それは、慈善の精神ではなく、不正な精神で 、ロビー活動、選挙献金、思想的リーダーの後援、慈善的な評判に覆われたマネーロンダリング、苦行の代わりに命名権を得るといった行為だ。 事実、フリードマンはこれを是認しているのだ。 彼は、企業がどのようにして「自社の利益として完全に正当化される支出の副産物として善意を生み出す」、別名:新自由主義的善行、ができるかについて語り、そして「経営層に控えるように求めることは私自身と矛盾するであろう」と言っているのだ。

フリードマンのビジョンは、企業が実際に自分たちの車線にとどまり、たくましい公共セクターと市民たちが民間企業のエネルギーを公共利益のために最大限活用するルールを自由に作成できるようにしておけば、うまくいく可能性があった。 代わりに、彼は企業に無慈悲となり、公共の利益を心配しなくていいように道徳的にかばったのだ。一方で、ルールを書き直させるために公共圏に干渉することから締め出しもしたが。

ラリー・フィンク(ブラックロックCEO)

ラリー-フィンク-ブラックロックCEO-の-B-Corpとは
ブラックロックのウェブサイトより

市場システムを破壊し、それを中央管理システムに置き換えることは、政府が価格と賃金を効果的に管理することほど短期間でできるものはない。
(フリードマンのエッセイより)

フリードマンの意見を理解するには歴史的な背景が必要だ。当時の世界は企業行動広範にわたって非常に透明性が低く、かなりアメリカ中心的だった。彼のエッセイは自由市場における潜在的制約が非常にリアルだった中で書かれたのだ。このエッセイが世に出た翌年、フリードマンの恐れていた賃金物価統制のようなことをニクソンが実施した。それは、自由市場、テクノロジー、グローバリゼーションが何億もの人を貧困から救いあげるような今日の世界(一方で不平等もかなり増えているが)とはだいぶ違う世界だ。

それを念頭において、そして先進国市場の政府はほとんど介入しないという状況下では、企業は全てのステークホルダーに貢献し尽くすことができ、またそうすべきであると私は思う。企業は日々活動するために社会的ライセンスを稼ぐべきだし、多国籍企業はいっそう地元に根ざし、拠点のコミュニティに参画すべきである。今日の世界において、フリードマンが示しているように、ビジネスによるより大きな責任の意識は自由市場を攻撃することはない。むしろそれは市場を守り、強くするのに必須なのである。

彼らの利益をリスクにさらしてまでこれをしろと言っているわけではない。もし会社が倒産してしまったら元も子もない。しかし企業は活動拠点のコミュニティにとっても自社にとっても成功となるような道を考えられるし、考えるべきだ。 これは私個人の見解ではない。これはブラック・ロックの顧客が私たちに教えてくれていることなのだ。そしてこの顧客たちはフリードマンのエッセイに触発された株主、真に企業のオーナーなのである。

セア・リー(経済政策研究所代表)&ジョシュ・ビベンズ(同リサーチダイレクター)

セア-リー-経済政策研究所代表-ジョシュ-ビベンズ-リサーチダイレクター-の-B-Corpとは
経済政策研究所のウェブサイトより

私有財産の上に成り立つ理想的な自由市場においては、一個人で誰かを強制的に動かすことはできないし、全ての連携は任意であり、その連携の関係者全てが利益を受けるし、関係者は参加しなくてもいい。
(フリードマンのエッセイより)

強制的な力、権力、動かす力(パワー)は自由市場では行使されない。これはフリードマンの世界観の基礎である。しかし、フリードマンの、権力のない市場と権力を含む政治とをはっきりと区別するのはおとぎ話でしかない。すべての市場は、ロビー活動、政治的影響力、業界団体の支出によって形作られる、社会的・政治的構造でできているのだ。主要な市場において発揮される権力の意味というのは、経営層に良いことをしましょうと懇願して社会的目標が達成されていく、ということなのだろうか。そうでもない。そこはフリードマンと同意見だ。むしろ、CEOに訴えかけるのではなく、政治と政策を活用して権力と健全な社会の実現をバランスさせることが良いのではなかろうか。

フェリシア・ウォング(ルーズベルト研究所CEO)

フェリシア-ウォング-ルーズベルト研究所CEO-の-B-Corpとは
「The business of giving」のウェブサイトより

しかし、「社会的責任」のドクトリンは政治的メカニズムの範囲を全ての人間の活動にまで広げることになる。
(フリードマンのエッセイより)

フリードマンはこのような警告で締めている。「『社会的責任』ドクトリンは『すべての人間の活動』を侵害するであろう。」と。しかし逆だ。今日においては、短期的で「貪欲は良いこと」とする株主のマインドセットが全てを侵害している。

フリードマンの世界は整っている。減税と教育機会の更なる提供をしてさえいれば、効率的なビジネスは社会問題を解決する。彼は1940年代中頃からこのような議論をしているが、整然とした「自由」市場の確約が政治的混乱からの脱出を確約する、とされた1970年代になってようやく日の目を見るようになった。フリードマンがこのエッセイを執筆した当時のアメリカの(圧倒的に白人だが)恐れを考えてみよう。ワッツデトロイトベトナムケント州、ジャクソン州、キング牧師とケネディー大統領の暗殺、学校での性教育(この頃政治問題へ発展も)、髪を長く伸ばす男子。そんな中フリードマンの文章の下には明るい兆しがあった。ビジネス(マン)は、柵で囲われた白人のアメリカンファミリーを救うために、繁栄と秩序を取り戻すべき時だ、と。フリードマンの考えは社会保守主義者に支持され影響力を増し、オレンジ郡伝道師(カルフォルニア州オレンジ郡はかつて共和党と深いつながりがあった)からロナルド・レーガンに至るまで広まった。実際にレーガンは「すべての人間の活動」に彼のドクトリンを適用したのだ。 それが公共セクターにも、そして「the art of the deal (取引の芸術)」を称賛する一方で、様々な国家危機や3000万人のアメリカ人が満足に食を得られないような経済を無能が故に何もできない大統領に至るまで、執拗に利益を重視することへとつながっていったのだ。

ラス・ロバート(フーバー研究所リサーチフェロー)

ラス-ロバート-フーバー研究所リサーチフェロー-の-B-Corpとは
フーバー研究所のウェブサイトより

だから私の著書である「資本主義と自由」の中で、それを自由な社会における「根本的に破壊的な教義」と呼んだのである。そしてそのような社会では「企業の社会的な責任はひとつ、唯一ひとつである。それは資源を活用し、利益を増大させるように設計された活動を遂行することである。ただし、その営みはゲー ムの規則の範囲内である。つまり、詐欺と欺瞞のない開かれた自由な競争に参加するということである。」と述べたのである。
(フリードマンのエッセイより)

「競争」という言葉はフリードマンのエッセイの中で一度しか登場しない。それも最後の文章だ。一方で、フリードマンの競争に対する見解が常に根底に存在している。企業は何か高尚なことよりも利益を追求すべきだという考えなので、フリードマンは「企業重視派」であると言われることが多い。彼は断固としてその考えを否定した。フリードマンは市場重視派なのであって、ビジネスは市場競争の下に存在するのである。従業員や顧客を大切にする企業は競争プロセスの中で生き残ることができる。 成績の乏しい企業は顧客も従業員も失い、ゆくゆくは倒産してしまうのだ。

いわゆる資本家、それはビジネスリーダーたちだが、彼らは多くの場合反資本主義であるという奇妙な現象をフリードマンはたびたび指摘している。彼らは自由市場の競争から絶縁された方がましと考えているのだ。国際的な競争相手を排除するために関税やクオータを求めてロビー活動を行い、これはフリードマンがしつこく批判している政策なのだが、彼らの産業には補助金など特別措置が必要だと主張する。 

しかし利益追求を促すことで企業が従業員や顧客から搾取することにつながりかねないのではないだろうか? フリードマンは逆を恐れていた。つまり利益追求を緩めることにより、雇用主として、そしてイノベーターとして、企業のパフォーマンスを向上させる源泉となる市場競争の原理を失ってしまうと考えていたのだ。

アメリカの、市場と競争をわりと好む姿勢が繁栄をもたらした。今日いろんな人が言っているように、フリードマンはその繁栄をもっと拡散させたかった。だが、彼がエッセイで言う通り、社会規範として企業が賃金を上げるべきではないと考えていた。むしろ彼は、貧困下にある子どもたちが市場システムにおいてもっと生産的な労働力となるためのスキルを身につけられるような教育改革を訴えていたのだ。

ダレン・ウォーカー(フォード財団CEO)

ダレン-ウォーカー-フォード財団CEO-の-B-Corpとは
フォード財団のウェブサイトより

プロパガンダでは告発が告白を裏切る。最も破壊的なドクトリンはフリードマン自身であったし、今なおそうである。彼のドクトリンは、企業が人種統合やインクルージョンへの推進力となる責任から解放した。そして株主第一主義にささげる企業リーダーたちを輩出することになった。そういう意味ではフリードマンの考えは神学となり、後に続くもの達に、「貪欲はいいこと」という考えが何十年も凌駕していたことを正当化してしまう足場となってしまったのだ。小学3年生までしか教育を受けていない、半識学者である私の祖父のような人が、客の荷物を運ぶポーターとして、彼の仕事を大切にしてくれる会社で、利益共有の恩恵に授かって働くことができた時代は遠い昔の話となってしまった。社会契約はずたずたになり、経済はバランスを失い、今日アメリカを悩ませているとおり、持続不可能な不平等を生み出してしまっていたのだ。

私は誇り高き資本家だ。私は生活や暮らしを向上させる市場独特の力を信じている。特にフェアでインクルーシブな時だ。結局、アダム・スミスも「大半が貧乏でみじめである限り、社会は発展し幸福にはなりえない」と忠告した。しかし民主的資本社会において民主主義が一番に来ることをフリードマンは無視した。「我々、人民」が企業に経営する権利を与えていて、その代わり企業は稼ぎ、進化していかなければならない、と。



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